2025/05/21

「久延彦便り Q&A」(11)

Q.
 2024年春に刷新された小学校6年生の道徳の教科書からは削除された題材に「星野君の二塁打」というものがあります。題材のあらすじは次のようなものです。

 「選手権大会出場のかかった重要な試合で、監督から出された送りバンドのサインを無視して(打てそうな気がしたため)二塁打を放ちチームの勝利に貢献した星野君。チーム全員で決めた作戦(試合前に監督の指示に従うとミーティングで決めていた)に反した星野君は監督から当面の間、試合への出場を禁止される。」

 この題材に関しては、子供の“自主性”を重んじ、監督の指示への服従を求めるのは問題だという意見と、集団生活でのルールを考える上で、“規律性”を大切にするべきである、という意見があるそうですが、どのように思われますか。

A.
 まず、今回の題材に関して意見が対立している「自主性」と「規律性」についてですが、この場合は監督の指示に従うことが正しいことであり、結果として星野君が二塁打を放ち、チームが勝利したということはどうでも良いことです。今回の題材に関して意見の対立があること自体が、大問題なのであり、ここに今日の学校教育における根本的な問題が潜んでいるのではないでしょうか。

 この題材を通して、子供の自主性について論じたり、結果として二塁打を打つことでチームが勝利したという結果論で事の是非を判断したりすること自体が、そもそも間違っているのです。つまり、自主性か、規律性かという議論に導こうとすることが、この題材がもたらす最大の害悪であり、子供の道徳教育としてはまったくふさわしくないのです。

 チーム競技である野球において、監督の指示に従うことは何よりも大切なことです。その指示に従わないという選択自体が本来あり得ないことだからです。にもかかわらず、二塁打を打つことでチームが勝利したという結果論を持ち出し、さらには自主性という言葉で監督の指示を無視したことを正当化するのは、まさに悪知恵であり、詭弁(きべん)であり、不道徳なことです。

 そこで、あえて一つの提言をしたいと思います。この題材が道徳の教科書に掲載される唯一の正当な理由があるとすれば、それは、結果論や自主性を持ち込むことの悪知恵や詭弁を子供たちに見抜かせるための教育材料とすることです。つまり、間違ったことを正当化し、過ちを認めたくないために屁理屈を並べ立て、自主性などというもっともらしい言葉で何事をもごまかそうとする偽善がこの世界には蔓延しているということを、子供たちに教え諭すためならば、この題材はとても有益なものとなるのではないでしょうか。

 子供たちにはしっかりと次のように教えるべなのです。「星野君のようになってはいけません。チーム全体で決めたことを自分勝手な判断で無視し、結果が良ければいいではないかというような考え方だけは決してしてはなりません。自主性が大切だからとか、チームが勝利したのだから何の問題もないとか、さも正しいかのように見える偽善がこの世界にはたくさんあります。しかし、皆さんはこのような偽善を見抜く人になり、人としていかなる道を歩むことが正しいことなのかをしっかりと学んでください」と。

 星野君が送りバンドをするのではなく、自分が打つことでチームの勝利に貢献することができると本当に思ったのであれば、また、自主性を重んじるというのであれば、星野君は監督にそのことを伝えるべきなのです。それが本当の自主性であり、相談することもなく、監督の指示を無視する行為は、自主性ではなく、単なる身勝手でしかありません。

 チームが勝利するためには何をしてもいいのであり、監督の指示よりも自分の主体性が大切なのだ、と考えるような子供たちを作り出してしまう教育は、百害あって一利なしの亡国教育でしかないのです。「教育は国家百年の計」という言葉があります。日本国が世界の中で最も誇らしく、最も素晴らしい国であり続けるためには、将来を担う若者たちが世界の中で最も誇らしく、最も素晴らしい教育を受けなければならないのです。