2025/06/18

「久延彦便り Q&A」(12)

Q.
 過疎化と東京一極集中の問題についてですが、転出超過ランキングにおいて、広島県が4年連続で1位となりました。鳥取や高知のような地方に限らず、仙台や広島のような地方都市でも若者の都市部への流出が止まらないようです。広島では流出を防ぐ取り組みもいろいろと行われているようですが、そもそも過疎化を止める必要はあるのでしょうか。東京一極集中が加速している現状をどう思われますか。

A.
 まず、多くの若者が東京などの大都市に流出しているという現状ですが、これはある意味では仕方のないことだと思います。特に、若者たちは将来に対する夢や希望を少なからず心に抱いていて、自分の人生において大きな可能性を持っています。自分の能力を高めたい、自分の夢を実現したい、また、自分の可能性を最大限に生かしたい、そのような思いで夢や希望を実現する場として、東京に出て行くのではないでしょうか。

 例えば、大学進学において、首都圏の大学を選択することは、若者たちにとっては一つの挑戦であり、人生を懸けた最初の冒険なのかもしれません。そして、現実として東京に出て行くことで与えられる恩恵は確かに大きいと思います。東京には多くの優秀な人材が集まり、世界最先端の技術や知識が集積し、さらには世界中のありとあらゆる情報が飛び込んできます。私たちが何かの夢を実現したいと思い、人生の目的を果たしたいと願う時、そのために必要なものすべてが備えられているのが、日本の首都・東京の魅力なのではないでしょうか。

 そこで、東京一極集中や地方の過疎化について考えてみる時、問題の根本にあるのは、若者たちが東京に流出することではないということです。若き日に大都市に憧れ、夢や希望に胸を膨らませて故郷を離れることは、今に始まったことではないからです。実は、問題の本質は東京に出て行くことにあるのではなく、東京に出て行った若者が自分の生まれ育った故郷に帰ってこないということなのです。ここに問題の本質があるのです。

 では、どうして若者たちは東京に出て行った後に、故郷に帰ろうとはせず、そのまま東京に住み続けるようになるのでしょうか。それは、故郷と自分との関係が余りにも希薄なものとなり、若者たちが「いつかは故郷に帰ろう」という思いをそもそも抱かなくなっているからではないでしょうか。

 私たちにとっての故郷とはどのようなものなのでしょうか。多くの日本人が愛唱した『故郷(ふるさと)』という唱歌があります。その歌詞の中では、幼い時に遊んだ自然の光景が描かれ、「夢は今も巡りて忘れがたき故郷」とあり、故郷にいる父母や友達を懐かしく思い出し、「雨に風につけても思い出ずる故郷」と続き、最後には「志を果たしていつの日にか帰らん」と歌われています。ここには日本人の純粋で素直な心がありのままに詠われているように思うのです。

 新千円札の肖像画となった北里柴三郎は、世界で初めて破傷風菌の培養に成功し、さらに破傷風の治療法としての血清療法を発明して、世界的に有名な学者となりました。北里は欧米各国の研究所から招聘(しょうへい)の依頼を数多く受け、その条件が破格の好待遇であったにもかかわらず、すべて固辞(こじ)します。それは、北里が国費によって留学した目的が日本の脆弱(ぜいじゃく)な医療体制を改善し、伝染病の脅威から国家国民を救うことにあったからです。

 私たち一人一人が夢を追いかけ、それぞれが人生に希望を抱き、一度限りの人生をどのように生きるのか、それは個人の自由に委ねられています。しかし、私たちは自分の意思で生まれてきたのではありません。また、自分だけの力で生きてきたのでもありません。私たちを生み育ててくれた父母がいて、私たちの生命を育くみ、私たちの情緒を養ってくれた故郷があり、さらには兄弟や友人、学校の先生など、多くの人たちの助けによって今の自分が存在しているということを私たちは決して忘れてはならないと思うのです。

 北里柴三郎は自分の人生のすべてを伝染病の脅威から国家国民を救うことに捧げました。世界最高の研究施設に招かれ、多額の研究費と給与が保障されるなど、どんな厚遇を受けようとも、北里は自分が生まれ育った祖国のために生きることを願っていました。それは、自分という存在を生み育ててくれた故郷と祖国に対する恩返しだったからです。

 「故郷(ふるさと)」とは、私たちが最初に愛の因縁を結んだ場所である、とも言われます。私たちの人生に限りない恩恵を与えてくれた場所、それが故郷なのではないでしょうか。与えられた愛を忘れることなく、受けた恩に報いるために、私たちは生きるべきなのではないでしょうか。そのことを心の内に秘めて、自分自身の夢と希望を追い求めるために、故郷を離れて東京に出て行くことは、それ自体が素晴らしいことなのだと思います。東京に出て行くことが目的ではなく、夢や希望を実現するための一つの手段であり、目的のための一つの過程であるとするならば、その先に私たちが何を見ているのかが重要なのです。北里柴三郎のように故郷と祖国への恩返しのために、東京で培った能力や技術を持ち帰り、故郷のために貢献することができたら、どんなに素晴らしいことでしょう。

 私たちの本心は何を願っているのでしょうか。『故郷』という唱歌に描かれた美しい心が日本人の心であることを信じたいと思います。そして、そのような心を思い出し、取り戻すことができたなら、東京一極集中や地方の過疎化という問題は自(おの)ずと解決されていくのではないでしょうか。人生の終着地である幸福駅に辿り着くために、東京に途中下車することがあったとしても、私たちの終着地である幸福駅は故郷にこそあるということを知るならば、私たちの人生は美しいものとなり、誇らしいものとなるのではないでしょうか。