2026年5月5日火曜日

「久延彦便り Q&A」(17)

Q.
共産主義思想の根底に憎悪があることは理解できましたが、なぜ、マルクスは神を恨むようになったのですか。

A.
まず、マルクスが1841年に書いた学位論文『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』の一節をご紹介します。そこには神に対する生々しい憎悪が綴られています。

 「端的に言えば、すべての神々を私は憎む、この告白は哲学自身の告白であり、・・・哲学自身の宣言である。」

 では、なぜ、マルクスはここまで神を憎悪し、恨むようになったのでしょうか。まず、当時の社会環境の影響が相当に関係しています。マルクスが生きた当時の欧州では資本主義が発展の途上にあり、資本家による労働者への搾取と酷使はひどいものでした。失業、飢餓、疾病、社会的犯罪などの惨状が広がり、さらに為政者や財界人の不正と腐敗は目を覆うばかりでした。人民は抑圧され、大衆の貧困と苦痛はまさに極限に達していたのです。

 ところが、このような社会不安を取り除き、大衆の貧困や苦痛に対して愛の手を差し伸べ、虐げられた人々に平安と希望を与えてくれるはずと期待されていた当時のキリスト教会は、手を差し伸べるどころか、ただ傍観するだけで全く無力でした。そればかりか、キリスト教会は権力者や資本家によって利用され、社会の惨状を正当化するための堕落した宗教と化していたのです。崇高なキリストの愛と許しの教えは、資本主義の財欲の嵐に飲み込まれてしまったのです。このような社会的環境のもとで、マルクスの正義心は恨みに満ちたものへと変容し、国家と宗教に対する反抗心、復讐心、そして、憎悪心となりました。このような闘争的な性格が基盤となってマルクス思想は形成されていくようになったのです。

 さらに、マルクスの個人的体験は、宗教に対する憎悪心、神に対する恨みをさらに増長させる要因となりました。マルクス家は代々ユダヤ教のラビであり、マルクス自身も敬虔な信仰の家庭で育てられ、初めから神を恨んでいたわけではありませんでした。ところが、時代がその状況を一変させます。当時のプロシア政府が、キリスト教徒以外は公職につけないという、ユダヤ教徒を公職から追放するための条例を制定したのです。マルクスの父は弁護士であり、その職を守るためにキリスト教に改宗しました。そして、受洗後にはユダヤ人固有の名前であるヘッシェルからドイツ風のハインリッヒに改名したのです。

 一方、敬虔なユダヤ教徒であった母ヘンリエッテは改宗に反対します。しかし、1824年に父は7人の子供たちをキリスト教徒にさせ、その翌年には母もやむなくキリスト教に改宗することになりました。因みに、母は夫の死後(1838年)、再びユダヤ教徒に復帰しています。キリスト教に改宗したマルクス一家でしたが、プロシア社会からはユダヤ人として差別され続け、また、ユダヤ社会からは背教者、裏切り者として蔑視されるようになります。そして、マルクス自身の心にはユダヤ人を迫害するプロシア政府に対する反抗心や復讐心が燃え上がりました。また、宗教のゆえに差別や迫害が生じていることから、ユダヤ教やキリスト教に対しても強い憎しみを抱くようになったのです。そして、大学生の頃になると、マルクスの書いた論文や詩の中には、憎しみとか、復讐という言葉があちらこちらに見られるようになり、やがてその思いは神への激しい憎悪と闘争的な復讐心へと発展していったのです。

 さらにもう一点、マルクスの内面に大きな影響を与えたのが、ルソー(1712-1778)の思想でした。ルソーにも社会に対する憎悪心を抱かせる契機となった個人的体験があります。ルソーは生まれて間もなく母と死別し、10歳の時には父からも捨てられ、天涯孤独となりました。職業を転々としつつ青春時代を過ごし、失意のどん底と貧困の中で、ルソーは社会に対する徹底した憎しみを持つようになったのです。そして、腐敗し、堕落した社会環境が人間を不幸にし、不自由にしているのだと結論し、社会制度を打ち壊し、改変することだけが人間を幸福にする唯一の道であると信じるようになったのです。

 社会環境が諸悪の根源であると考えることは、人間個人の変革や啓発を妨げる要素となります。共産主義思想の根底には国家の政治経済体制やそれを支えている権力者、資本家、そして、宗教指導者こそが諸悪の根源であるという思い違いがあります。そして、今ある社会秩序を支え、かつ擁護している支配者層に対しては強烈なまでの反抗心、憎悪心、復讐心を抱くようになるのです。さらに、このような激しい憎悪や復讐心こそが、社会正義を実現するための力の源であると公然と宣言するようになったのです。

 父の死後、マルクスの母はユダヤ教徒に戻りますが、マルクスが異教徒(キリスト教徒)であるイェニーと結婚することに猛反対します。そして、故郷トリールのユダヤ教徒たちに煽(あお)られてマルクスへの父の遺産相続を拒絶したのです。また、イェニーの兄で後にプロシアの内務大臣となったフェルディナントも保守的な貴族主義者であり、マルクスとの結婚に反対します。しかし、多くの親族に反対されながらもイェニーの意思は変わらず、1843年に二人は結婚します。マルクスはイェニーについて、「私の婚約者は、私のために最も苦しい闘い-天上の主(神)とベルリンの主(プロシア国王)を崇拝する信心深い貴族的な親類どもに対する闘い-を戦ってくれた。そのためにほとんど健康も害したほどである」と語っています。神と国王を崇拝する者たちとの熾烈(しれつ)な闘いの末に勝ち取ったものがイェニーとの結婚だったのです。

 父の遺産相続を拒絶され、イェニーとの結婚にも反対されたマルクスは、その根底にあるものは神への崇拝という宗教の呪縛にあると思い込むようになりました。改めて宗教と国家からの仕打ちに苛(さいな)まされたマルクスは激しい憎悪を抱き、ついには「宗教は阿片(アヘン)である」と規定し、神に対する憎悪と復讐を誓い、神と対決する革命思想家となったのです。「すべての神々を私は憎む」という告白こそ、マルクスにとっては神への宣戦布告だったのです。