2025年11月26日水曜日

「久延彦便り Q&A」(15)

Q.
 オランダで行われた心理実験の結果についてです。被験者を無作為に二つのグループに分けて知能テストを受けてもらいます。Aグループには「あなたは頭が悪く知能が劣っている」という結果を伝え、Bグループには「あなたは普通で知能は平均的だ」と伝えます。しかし、この知能テストの結果は嘘で、本当の実験はその後の反応を知るためのものでした。そこで、二つのグループの人たちにある新聞記事を読んでもらい、その感想を書いてもらいました。その新聞記事とは次のような内容です。
 「大学生の若者がはしゃいで大学のパーティーでいい格好をしようと高級外車を借りて出かけますが、駐車場に停めようとしたらそのまま滑って運河に車を落として、散々恥をかいた。」
 この記事の感想で、Aグルーブは全員が「いい気味だ」とか、「ざまあみろ」などという趣旨の回答をし、Bグループは「気の毒に思った」とか、「何とも思わない」と回答していました。このことから、他人の失敗や不幸を喜ぶ感情は、その人の個性や生来の性格とは関係がなく、直前に自尊心を傷つけられたかどうかで決まるということが実証されたというのです。この心理実験の結果について、また、「他人の不幸は蜜の味」という言葉について、どのように思われますか。

A.
 今回の心理実験の結果が示すように、私たちの自尊心がひどく傷つけられた場合に、他人の失敗や不幸を喜ぶ感情を抱きやすくなるというのは、事実かもしれませんが、そもそも他人の失敗や不幸を喜ぶという感情は、自尊心の問題だけではないと思います。実際のところ、他人の失敗や不幸を喜ぶというのは、その本人の幸福の度合いに応じて出てくる感情なのではないでしょうか。日常生活において幸せを感じている人は、他人に対しても自分と同じように幸せになってほしいと願うものですし、日々の生活に幸福を感じられない人は、他人が幸福であることを妬んだり、他人の失敗を面白がったりするものなのです。

 そこで、今回の実験で自尊心が傷つけられたという事例についてですが、これは、結局のところ他人との比較に基づくものでしかありません。他人より知能テストの成績が劣っているという結果を聞いて、自尊心が傷つけられ、他人の不幸を喜ぶような感情を抱くようになったというのですが、他人との比較により劣等感を味わったことだけが、他人の失敗や不幸を喜ぶという感情を引き起こしていると結論付けてよいのでしょうか。実験では、他人の失敗や不幸を喜ぶ感情が、その人の個性や生来の性格とは無関係であることを実証しようとしているのですが、この実験結果をもって他人の不幸を喜ぶという感情の原因を突き止めたことにはなりません。

 他人の不幸を蜜の味のように思う感情は、一体どこから生じてくるのでしょうか。それは、他人との比較により自尊心が傷つけられたからではありません。私たちが真の幸福を味わっているか否かによって他人の不幸をどのように感じるかが決まってくるのです。そして、ここで何よりも大切なのは真の幸福とは何かということです。さらに言えば、自尊心にも真の自尊心と偽りの自尊心があるということなのです。

 それでは、「真」と「偽り」の違いは何なのでしょうか。一言で言えば、「真」なるものは他人との比較によって得られるものではありません。他人よりも幸せであることが真の幸福ではありませんし、他人よりも優っていることが真の自尊心でもありません。それに対して、「偽り」とは常に他人との比較を基準としています。他人との比較はその他人がどのような人であるかによって、常に揺れ動きます。つまり、他人との比較は時には優越感となり、時には劣等感となり、その時々に私たちは優越感と劣等感の狭間を行ったり来たりすることになるのです。

 他人より恵まれていることで得られる幸福観は一時的なものであり、他人より優れていることで味わう自尊心もその日限りのものでしかないのです。なぜなら、他人との比較は日常生活の中で常に行われているからです。そして、そのたびごとに私たちは優越感と劣等感の間を揺れ動くことになるからです。私たちはある時は優越感の中で他人の不幸を憐れむようになり、またある時は劣等感から他人の不幸を喜ぶようになるのです。

 今回の心理実験の問題点はここにあります。被験者が疑似知能テストの優劣によって二つのグループに分けられ、Aグループは偽りの劣等感を植え付けられて自尊心を傷つけられます。一方で、Bグルーブは偽りの優越感を持たされて偽りの自尊心を与えられます。このように他人との比較を基準として与えられた優越感や自尊心は、結局のところは一時的なものであり、偽りものでしかないのです。そして、このような比較からもたらされる優越感に浸り、自尊心が保たれ、心に少しばかりの余裕が生まれたことで、他人の失敗や不幸を気の毒に思ったり、憐みの気持ちを向けたとして、そこに人としての喜びや幸せがあるでしょうか。

 私たちは他人との比較などという相対的な基準によって得られる自尊心や幸福などには目もくれず、他人との比較という人間関係の縛りから解放されて、真の自分の価値を絶対的な基準によって見つけ出し、真の自尊心を持たなければならないのです。絶対的で誰にも奪われることもない、永遠に変わることのない真の幸福をつかまなければならないのです。真の自分を探し出し、真の自尊心を持ち、真の幸福を得ることができた時にこそ、私たちは「他人の不幸は蜜の味」というあまりにも惨めで無意味な負の感情から解放されるのです。